2014年2月20日木曜日

能「野宮」

能「野宮」
 能「野宮」では、六条御息所の亡霊が妄執に囚われている自分を救うため、回向して欲しいと僧に頼みます。夜通し御息所を弔う僧の前に、秋の千草の花車に乗って御息所の亡霊が現れ、幽かな月光の下で、花のような袖を翻して舞う。
 この旅の僧は、野宮を訪れて、伊勢大神宮は神仏の隔てをなされず、仏法の教えが正しく流布し、心は澄み渡るような夕景だと述懐している。御息所の霊は仏法によって救われた事を語っている。
 国学の途が幕末以来、神ながらの道をひたすら辿るあまり、源氏物語に流れる仏教観が疎かにされたのは、嘆くべき事柄であった。能「野宮」に最も感嘆したのは、ドナルドキーン氏であったのは、日本人として悲しむべき事実である。紫式部を代表として、日本人の心に流れていた仏教観が否定された明治は慨嘆すべき、異形の文化を築いたと断言できる。
 日本の国学が途を誤り、源氏の須磨の巻きが尊ばれたのは、住吉の神が活躍したからである。しかし、その霊験は明石の入道の台密による修行と住吉の神への願掛けによる密教的な呪術によって達成されたのである。源氏が赦されて、政界に復帰するのも、この修行の賜物であり、御息所の死後、娘を養女にして、中宮に立てたのも御息所に対する供養であっただろう。源氏物語に脈々と流れる仏法を無視して、その深さを味わうことはできない。物語の表面上の筋は顕教的であり、その奥に隠された深い意味は密教的と言える。

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