2014年9月1日月曜日

明治維新と勤王の志士

明治維新
 これは勤王の志士達が、幕藩体制を殲滅し、倒幕と廃藩置県によって、国家統一を果たし
た偉業であった。ただ、方法論にすこし間違いがあった。朱子学の呪縛と、国家神道に傾斜し
過ぎたと思う。やはり、ここは奈良時代の鎮護国家にならって、神道と仏教の融合である密厳
国土のような国家を樹立すべきだ。米国の占領政策による地方分権は、日本の風土には適
応せず、統一国家としての強靭さを欠いている。日本神道の荒魂を鎮めるには密教的仏教観
が不可欠である。天照大御神の和魂は、国家の平和と経世済民を望んでいるのは、古事記で
明かである。

 尊王攘夷思想というのは、現代では分かりにくくなったように思う。徳川幕府に対して尊王、
外国の文化や思想に対して攘夷だと思う。これが富国強兵に発展していく。

 徳川幕府の朱子学に対して、江戸幕府開闢当初から抵抗していたのは、後水尾天皇や臨
済宗の沢庵和尚であった。水上勉氏の「沢庵」は、現代人の仏法に対する蒙を啓くものであり
示唆に充ちている。
 幕末の武士階級は、朱子学の忠義から逃れることが難しく、結局徳川幕府や将軍や天皇に
裏切られる。外様大名の藩が維新の遂行ができたのは、徳川に対する忠義なぞなかったから
だ。天皇に対する忠義というより、王道に対する忠義といっていいだろう。
 明治維新はこの朱子学と国家神道が融合して、荒魂が猛威をふるった。天照大御神の和魂
と統一神としての八幡菩薩を勧請した密教的国家観や宇宙的親和が閑却されたようだ。

2014年4月11日金曜日

寛文近江・若狭地震

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%96%87%E8%BF%91%E6%B1%9F%E3%83%BB%E8%8B%A5%E7%8B%AD%E5%9C%B0%E9%9C%87

寛文・若狭大地震

 
小浜を中心として、東西に原発が15基集中している。関電の無責任な対応は原発依存が他の電力会社より抜きんでているからである。このような依存を断ち切ることこそ関電に求められる社会的責任である。三方五湖付近で3メートル以上の土地の隆起が起こっている。美浜発電所に近い。水上勉氏は大飯町の生まれだが、大飯原発に対する危惧を小説「故郷」で披瀝している。古文書の発掘や周辺の越前藩や京都府のどこかの藩にある古文書のチェックが必要である。寺社仏閣等にも記録があるはずである。もんじゅの原子力開発機構も文科省の人材を動員して積極的に文献の発掘と公表に踏み切ってほしい。原子力開発機構は先祖返りをして水力発電に事業転換すれば済む話なんですよ。

2014年4月2日水曜日

原発依存の政治体制

 
 関電の送電線談合にしろ、政策投資銀行の北海道電力への融資は、電力自由化に逆行する動きである。一瞬にして国民の生命と財産を奪う原発事故のリスクのある電力会社に国民の税金で融資するなぞ、株式式市場とリート市場を危険な状態に晒すも同然だ。福島を見よ!土地の資産価値は、今やない。原発の立地地域の地価も動きがほとんどない状態だ。それにもかかわらず、土地建物評価額は正しく評価されていない。地方自治体の悪辣な税制は、過疎化に拍車をかけるだろう。原発とともに、滅びるしかない。原発の事故から国民の生命や財産を守れない状態で、国防もないだろ。原発に依存する政治家や国民の精神が病んでいるのだ。原発事故がひとたび起これば、政治団体が抱えている電力債や株券は一瞬にして紙屑となるのだ!彼らの信じているものは、妄想にすぎない。原発に対する妄執こそ彼らの病だ。
 日銀が大手不動産会社のリートを買っているが、独占資本体制を強固にする傾向にあるが、そんな放射能の降っている東京の土地の評価額が上がるとは思われず、彼らのハゲタカのような野望も春の夢となるだろう。東京の人口を考えたら、癌の発症が顕著になってくるに従い東京の土地神話はメルトダウンするだろう。
 想い起せば、与謝野氏の経済政策が悉く失敗したのは、この原子力ムラに依存した政治体制にあったことが大きな要因だったであろう。氏はリーマンショックの影響が当初は軽微なものであると考えていた。彼の関心は不動産には全くなかった。ところが不動産リート市場を創り、投資していた米国のヘッジファンドが次々と撤退し、不動産リートは無残な紙屑同然になり、それに連動したリートの運用を中心にしていた不動産株は昔の古紙市場か紙飛行機のようにくるくる旋回しながら、クラッシュしていった。飛ぶ鳥を落とす勢いだったリート関連の不動産株を担保に信用買いしていた強気な投資家の投げ売りは、株式市場を奈落へと落した。これは与謝野氏が不動産金融に無関心だったからであろう。彼の無関心は即無用扱いとなる。クレジット市場の融資規制を厳しくしたのも、グレーゾーン金利の問題もさることながら、彼の消費意欲の無関心から来ていると言えないこともない。ジョゼフ・フーシェを座右の書にしていると云う彼の関心は、専ら原子力ムラの強固な政治体制を構築するための陰謀にあった。不動産の信用創造や消費の落ち込みなぞ、どうでもよかったのである。これによって、日本はデフレから脱却できなくなり、また国内の設備投資も回避されたのである。企業の資本は、新たなる市場を目指して、海外へと逃避した。
 追い打ちをかけるように原発事故は、与謝野氏の永年かかって作り上げた原子力ムラを機能不全に陥れた。彼らの利益共同体は電力会社の社債や株式を資産にして、その高い金利や配当によって支えられていた。電力会社が差し出す、彼らの社債や株式は、もはや何の意味もなく、単なる広報誌や不当たり同然の約束手形にすぎなくなった。縮小し採算のとれない原子力市場に、昔の夢を追って、関連会社が衝突し、食い合うことは必定で、やがてムラは内部分裂で崩壊するだろう。


2014年3月29日土曜日

軍閥化した原子力ムラ

 2008年のリーマン・ショックで新興系デベロッパーが次々と倒産し撤退して、マンション市場では、事業者数が年々減少し、寡占化が進んでいると云う。全く日本の病弊がここにも端的に現われている。中曽根内閣時の土光臨調がもたらした三井住友閥が不動産市場をハイエナのごとく蚕食しているのだ。もんじゅの事故も東芝の施工ミスだったし、福一の事故及び汚染水の流出も東芝の技術の劣化を語っている。結局、もんじゅの事故も終息させ復旧させたのは、三菱重工の技術陣であった。中曽根氏や与謝野氏の作った原子力ムラも金融村も、そしてプロパガンダ組織も、一応成功したかのようであったが、旧ソ連邦のように独占資本の技術の劣化によって、自らの存在意義を問われている。もはや政党政治すら、独占資本下で腐臭を放っている。ハゲタカは彼らだと言いたい。
 みんなの党の渡辺代表が郵政の役員人事に介入したら、敵方は政治資金規正法で反撃して来た。いかに腐敗した政商東芝と三井住友Gの悪辣な政治的陰謀か分かる。彼らはもう完全にハゲタカです。集団の狂気です。原発事故を繰り返し、隠蔽し、事故処理はできない。事故処理できない連中が、原発を輸出するという。中曽根・与謝野一派は、創世日本やネットウヨや左翼の知識人を操って、彼らの敵を抹殺しようと企んでいる。
 中曽根氏や与謝野氏が作った利益共同体の原子力ムラは、土光臨調によって東芝を抱え、金融危機の折には金融村を組みこみ、三井住友Gを政商として独占資本体制を構築した。総裁派閥旧田中派を潰すために、左翼知識人を利用し、今度は創世日本を中心としたネットウヨをプロパガンダ化した。いずれ、軍閥化した中曽根一派は、1930年代の再来で、テロやクーデターを惹起しかねない。日銀は経済市場の独占化・寡占化を解消すべき方法を見いださないと、高橋是清と同じ運命を辿ることになる。

死神の報復

 郵政人事に介入した報復としてみんなの党の渡辺代表が刺客にやられたという感だ。猪瀬氏もこの謀略にひかかり倒れた。法律を精査して、政敵を葬る中曽根氏や与謝野氏の謀略である。彼らはこのような手口で、総裁派閥の田中派を壊滅させたのである。それは日本の成長を虐殺させたに等しい。浅薄な知識人や愚かな環境保護団体を手玉に取り、まんまんと利用したのである。今では原子力ムラも金融ムラも報道ムラもネットウヨも中曽根帝国の支配下にある。そのやり口は、死神が瀕死の病人の枕もとで、そっとささやいて延命のかわりに悪事に加担するように、ささやくようなものである。
死神西室泰三は、そうやって帝国を巨大にして行って、やがては中曽根氏や与謝野氏が死んだ後は、帝国を我がものにしようとしている。

2014年3月19日水曜日

日本経済のメルトダウン

 甘利氏の経済政策の無意味さには、怒ることより笑ってやる方が有効のようだ。全くそういう意味で絶望的なのだ。日経新聞の記事なんかも、タイトルと記事の内容は逆に近く、大都市圏ですら地価が低迷しているのが真実だ。不況のほうが甘利氏には都合がいいのかもしれない。TPPの交渉の決裂のように、それが目的だったように。ただ笑えるのは、世界の重要人物に選ばれて自慢していたことだ。あれは真剣な顔で言ってたから、誇っていたのだろう。経済政策で国民経済を塗炭の苦しみに陥れた張本人として、世界の嘲笑をいずれ浴びるだろう。あの男の狡猾なほくそ笑いが、世界の嘲笑となって返ってくるだけだ。民主党・自民党・公明党を中心とした政党政治は、国民を絶望の淵に陥れただけで、福一の放射能汚染水の垂れ流しを止めることができないように、彼らに解決策を見つけることはできないだろう。そのずるさがいつまで続くかという時間が残されているだけだ。

2014年3月17日月曜日

彼岸入り


[詞書] 初瀬にまうづるごとに宿りける人の家に久しく宿らで、程へて後に至れりければ、かの家のあるじ、かくさだかになむ宿りはあると、言ひいだして侍りければ、そこに立てりける梅の花を折りてよめる

人はいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける  紀貫之 (古今42)

訳注 初瀬 長谷寺

 長谷寺の11面観音の御霊験はあらたかで、源氏物語では玉鬘が母夕顔の侍女で今は源氏に仕える右近に再会した。これを機縁として、貴種流離の身から、玉鬘は源氏の子として養われ、幸せを掴むことになる。

  明日は彼岸入り。観音様の縁日でもある。當麻寺の十一面観音は、「導き観音」と呼ばれ、中将姫さまが後の世の女性の幸福を祈られたことから、特に女人の守り本尊といわれるようになったと云う。中でも、良縁の祈願や、安産に効験があるとして腹帯のお加持を受けられる者が多く、また、子授け祈願や、肌着の加持も古くから知られている。他に男女問わず、「息災」つまり「厄除け」の本尊様としても知られ、ご宝前にて息災のご祈祷を受けることができると云う。
 現代でも、観音様の御霊験はあらたかで、先日も親戚の葬式で他人から、戦争に行って6人全員無事に帰ってこれたのは、近所ではうちの家位だったそうだ。大概は死んだんだと云う。これは祖父が信心深く、11面観音を山で拾って、おまつりしていたためではないかと思う。若狭地方は泰澄大師が、11面観音を信仰し、奈良時代の大仏建立位まで活躍され、山岳を中心に修行されたところであるから、山で観音様を拾うのはありえるだろう。
 西野カナさんという歌手がいるが、彼女の略歴をみると、観音様との縁の深さを思い知る。誕生日は3月18日で、名古屋の学生時代には大須観音の近所に住んでおり、祈願していたとのことである。その後、ヒットを飛ばし、今日では確固たる人気と地位を築いてしまった。大須観音は、能信上人が当寺の開創にあたり、伊勢大神宮に百ヶ日間おこもりになり、ある夕べの霊夢に、「大慈大悲の観世音こそは利益無量、この世の人びとに、もっともありがたいお方である。」とのお告げをえられ、そのうえ観世音の貴いお姿を拝されたと云う。大須観音と伊勢神宮の御縁は深い。西野カナさんも松阪出身だから、当然お伊勢さんとも縁が深い。観音様の奇跡は、拙著「西国33ヵ所巡礼の旅」で述べた。http://www.amazon.co.jp/dp/B00CQRLCQQ

偏差値教育の弊害による創造性の欠如


 芸術とは、時代に対するアンチテーゼだと三島由紀夫は言った。新しいものを生み出す力がなくなった日本は、正に偏差値教育による創造性の欠如という病を引き起こした。原子力事故に対する何の解決策も見いだせない現実を露呈したのだ。
 偏差値の評価では、芸術作品を評価できない。また創造性も評価不可能だ。偏差値教育の欠点は、創造性や変革の意志の欠如をもたらし、いつまでも解決できない問題点を政治や行政に宿痾としてはびこらしたことだ。

原発立地市の土地評価の見直し


 原子力立地市町村である敦賀市の地価は福島事故前の3分の1に下落している。実際売買は底を這っている状況だ。若干、住宅地が動いている程度である。3分の1だから、動いて当たり前だ。商業地はもう売り一色といっていい。問題は、固定資産評価額や相続評価額が見直されていない行政の怠慢だ。原発依存の町の経済は崩壊に近く、固定資産税を払ってペイできる段階はとうに過ぎている。来年の相続税の基礎控除の削減等も考えれば、行政はこれに積極的に対応すべきだし、新たな財源として、地方消費税の導入に踏み切らざるを得ない思う。消費を活発にする町づくりが大切なんだと云う事を住民に説得する必要がある。そのためには他の公租公課を削減すべきだ。地方の天下り行政と業者の癒着も断ついい機会だ。

2014年2月23日日曜日

「雁の寺」の無明

 水上勉氏の「雁の寺」は昭和八年の頃のお寺での設定である。主人公の小僧が抱え
ていた無明や社会への不満が、住職に対する殺人へ拡がっていく。昭和八年の段階で
中学校にまで軍事教練が課されていたのは、驚きである。
 
「阿呆いえ」
慈海は里子の鼓膜がふるえるほどの声をだした。
「禅寺の子弟に兵隊ごっこ教えて何なる。けしからん中学や」
「そんなこというたかて、きめやからしかたあらしまへんが」
慈海は怒った眼をすこしやわらげた。
「きめやてか。だれがそんな阿呆なことをきめよった。禅寺の小僧に鉄砲もたして何にな
る」
「そら知りまへん。だれが決めはったか知りまへんけど、みんなよろこんで鉄砲もってはり
まっせ」
「何ぬかす」
慈念はんも教練で疲れてはるんどっしや。ねむいのしかたないわ」
「そんなことで、修行中の小僧がつとまるかい」
慈海は眼をむいた。里子は、自分が叱られたような気がしたが、腹の中では一日ぐらい寝
すぎたって慈念を叱るにはあたるまいと思っている。きっと慈念は疲れきっているのであろ
う。四尺そこそこの小さい軀に、あんな大きな鉢頭を重そうに支えているのだから、勤行、作
務、学校、と不死身の軀でないとつとまるはずがない。里子は慈念を無意識にかばっていた。
「まあ、ええわ、あしたから縄でくくって引っ張ったる」
 慈海は舌打ちしてそういうと、鳥の足のようにしわのよった目尻を下げて、ぬくもった里
子の腰巻の紐をまさぐりにきた。朝になって軀を欲しがるのが習慣になっていた。慈海はま
すます眼を細め、毛の生えた短い指で里子の襟もとをかきわけ、乳房を弄びだすのである。

2014年2月22日土曜日

宮尾登美子「松風の家」

宮尾登美子著「松風の家」 
 茶禅一味<ちゃぜんいちみ> 「茶は遊にあらず、芸にあらず、道なり。道を忘れる者は、日本の心を忘れる者なり」明治維新によって、大名家の没落とともに茶道が衰退する中、庭に植えた茶の木から茶を摘み、裏手の山から山菜を採って、一汁三菜で糊口をしのぐ。禅の精神を体現し、「心あれば無尽蔵」と茶の伝統と普及に精進する。「今日を限りの一日花」としての木槿(むくげ)の花を愛で、「学びの海は広くとも、渡らばなどか越えざらん。教えの山は高くとも、踏むに至らぬ事やある」という気概で、明治維新の疾風怒濤の航海に、絶えることのない法灯としての茶禅一味の精神を継承する。それは、宮尾登美子さんの小説が、人生の荒海を渡る「櫂」であり、小説道とも言うべき法灯であるのだろう。

宮尾登美子著「春燈」
 物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂(たま)かとぞみる 和泉式部
いい作品に出会うと、魂が抜け出ていく。同じ感情で、同じ場所で、同じ時代に、同じものを、はるか時空を超えて、見ている。宮尾登美子さんの「春燈」もそういう作品で、行ったこともない、海辺の家から望む高知の海が、当時の作者と同じ気持ちで、見えて来た。その街の路地裏まではっきりと見えて来る。これが小説の醍醐味というものであろう。自分の魂が脱け出て、はるかな過去とその場所に一瞬で行って、当時の作者の背後から、同じ海や時代を見つめている。そういう不思議な魂の体験をした作品であった。

水上勉「雁の寺」

 水上勉氏の 「雁の寺」では、臨済宗のお寺の修行僧が、住職を殺すという、修業とは正反対の結果が描かれており、その恐怖は檀家の葬式にかこつけて、棺の中に殺した住職の死体をもう一体隠して葬ることで、一層なまなましい実感として襲ってくる。その修行僧の心の様々な鬱屈とした憎しみが、殺意となって闇を駆け抜ける。乞食の母の私生児という不幸な出生、肉体的なコンプレックス、軍事教練と寺の修行の苦しさ、そう言った苦しみが得体の知れない憎悪となって、住職を襲うのである。その救い難い殺意に、修行の空虚を読みとる者もいるだろう。この得体の知れない闇は無明そのものである。しかし、仏縁とは不思議なもので、「雁の寺」で作家として認められ、後年水上氏は病に倒れ、少年時代に修行した禅寺の食事法を摂るために軽井沢に移っている。
 「越前竹人形」は泥に咲く蓮の花のように、苦涯に身を堕した女が、竹細工の職人に救われて、薄幸な人生を終えるのを、哀しくも美しい物語として描かれている。人間の業の深さを思い知らされると同時に、人間の美しい情愛溢れる物語である。
 水上氏が福井県大飯町に生まれ、9才にして
、京都の臨済宗のお寺に小僧として修行に出されるが、あまりの厳しさに出奔する羽目になる。様々な職業を遍歴し、会社経営も思うに任せなかったが、この「雁の寺」によって、作家として成功する。後年、氏が故郷に帰ると、原発が林立し失望を深くしたと云う。氏の原発に対する懸念は、3年前の福島の原発事故としてあらわれてしまった。芸術家の直感とはおそろしいものである。臨済宗のなせる力かもしれない。原発はもはや我々日本人にとって、原罪のように重くのしかかっている。

2014年2月20日木曜日

能「野宮」

能「野宮」
 能「野宮」では、六条御息所の亡霊が妄執に囚われている自分を救うため、回向して欲しいと僧に頼みます。夜通し御息所を弔う僧の前に、秋の千草の花車に乗って御息所の亡霊が現れ、幽かな月光の下で、花のような袖を翻して舞う。
 この旅の僧は、野宮を訪れて、伊勢大神宮は神仏の隔てをなされず、仏法の教えが正しく流布し、心は澄み渡るような夕景だと述懐している。御息所の霊は仏法によって救われた事を語っている。
 国学の途が幕末以来、神ながらの道をひたすら辿るあまり、源氏物語に流れる仏教観が疎かにされたのは、嘆くべき事柄であった。能「野宮」に最も感嘆したのは、ドナルドキーン氏であったのは、日本人として悲しむべき事実である。紫式部を代表として、日本人の心に流れていた仏教観が否定された明治は慨嘆すべき、異形の文化を築いたと断言できる。
 日本の国学が途を誤り、源氏の須磨の巻きが尊ばれたのは、住吉の神が活躍したからである。しかし、その霊験は明石の入道の台密による修行と住吉の神への願掛けによる密教的な呪術によって達成されたのである。源氏が赦されて、政界に復帰するのも、この修行の賜物であり、御息所の死後、娘を養女にして、中宮に立てたのも御息所に対する供養であっただろう。源氏物語に脈々と流れる仏法を無視して、その深さを味わうことはできない。物語の表面上の筋は顕教的であり、その奥に隠された深い意味は密教的と言える。

2014年2月19日水曜日

原子力村の生霊


 原子力村の問題は科学技術の問題以上に、人間の執念の問題でもある。原子力村を作った一人の与謝野馨氏の政治的執念とも言うべきものを強く感じる。これは、彼の偉大なる祖母が訳した源氏物語の六条御息所の高貴な女の執念と同じものを感じる。東宮の死によって、プリンセスの座から一転して未亡人になり、源氏の愛人となったが、正妻の座を占めることができなかった。とうとう、正妻の葵の上を、生霊になって呪う。葵の上は死んでしまうが、この後味の悪さが御息所を苦しめる。彼女は、斎宮となって伊勢へ向かう娘とともに、源氏の元を去る。この話には救いはない。それは、あたかも神道に人間の救いを求めず、仏法に安らぎと救いを求めた紫式部の心中の作為だっただろう。
 http://aikokunokai.blogspot.jp/2013/04/blog-post_21.html

2014年2月12日水曜日

小泉純一郎・元首相「原発即ゼロで日本はよみがえる!」

 昨日のなかにし礼さんの雪の中の応援演説はすばらしかった。類まれなる芸術至上主義者である氏が、言霊が降りたように訴えた。「様々な嘘で民主主義が壊れてゆく。都民は自分たちの良心を見せようではありませんか?放射能の前では、世界一の防災対策も自衛隊も無力であり、人類の命と暮らしを奪うものであり、再稼働は民主主義のモラルを打ち壊すものだ」

 脱原発は良心の問題であり、それは彼の内奥からの叫びであり、真心であり、目の前の民衆と自分自身の良心に訴えるものであった。「古今和歌集仮名序」の冒頭が想起されるものであった。

「 やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」

 分けても脱原発の歴史的名演説を残したのは、小泉元首相であった。

「あの東北大震災、原発事故は日本を変えるチャンスである。また変えられるんだ。変えられるのに、変えることができるのに、なぜ立ち上がらないんだと言う、強い憤りの念が、私の胸に炎えてきたんだ。やれることはやろう。このピンチをチャンスに変えよう。歴史的大転換期だ!」